「繋がる」(心療部)

2024.10.01

今シーズンは、ハマスタに通い詰めています。TVKの野球中継もほぼ欠かさず観戦しています。野球少年だった子ども時代に戻ったように(当時は大洋ホエールズ友の会の会員)、来る日も来る日もベイスターズの勝敗に一喜一憂し、東が投げれば安心し、オースティンの熱いプレイに興奮し、毎晩ビールを飲んでいたらこの夏体重が3キロ増えていました。しかし、今年の野球への熱中度合い、普段は飲まないビールを毎晩、ちょっとおかしいぞ??と感じていました。そこに注目してしまうのが心理士の悲しい性。自分の心の中で何かが起こっている、そう感じたわけです。

昨年まで日吉心療所は現在の元住吉でなく、日吉にありました。当時は緑に恵まれた雰囲気のある建物、住宅街に位置するゆとりのある敷地にありました。昨年の12月に現在の元住吉に引っ越してきたのですが、日吉時代の心療所と(働くスタッフはかわりませんが)環境的に大きく異なる活気のある街中の心療所として再出発をしたわけです。移転からのおよそ9ヶ月間、スタッフ全員が新しい職場に慣れることにエネルギーを注いできました。しだいに元住吉での環境が新しいものでなくなり、日常として継続している自分自身がいることに気づくようになりました。一旦、新しい環境に慣れてしまうと、これまでそこに注いできたエネルギーが新たな向け先を求めるようになりました。余裕をもてるようになったともいえますが、これまで気づかなかったことに気づくようにもなります。私の場合、日吉時代の心療所の好きだったところに気づき、それらがすでに失われてしまったことについての悲しさや寂しさでした。植物に例えると、元住吉という新しい土地に移植はなされたけれども、足下をみるとまだしっかりと根を張っているわけではなかった。そうなると、茎の細い朝顔のように、自分を支えてくれる支柱を求めて私の心はさまよっていたのです。その支柱の役割を果たしてくれていたのがどうやらベイスターズだったようです。私の根っこは、なにかに支えられている必要があるような不安を抱えていたのです。私にとってのベイスターズはあくまで支柱です。長い目でみると、そもそも根っこを根付かせ、幹をつよくしてくれるわけではありません。支柱の助けをかりながら、今度は自らがしっかりと根を張っていかなければなりません。そのことに気づくと、日光を浴びたり大地から栄養を得たりと主体的に取り組む必要がでてきます。そのことを気づかせてくれたのが「繋がり」でした。

喪失感から無自覚な不安や孤独を抱えていた私に、同僚、友人たちがその人なりのあり方で接してくれました。ある人は黙って話をきいてくれたり、ある人は小さなヒントをくれたり、クライエントは毎週欠かさず時間通り規則通りに来談し、私の日常のリズムを支えてくれました。これらは、私にとっては「繋がる」という能動的な行為ではなく、もともと存在していた「繋がり」を再発見したという感覚の方がしっくりきます。どんな人のまわりにも「繋がり」は確かに存在しているのですが、ある条件が重なると見えにくくなるものなのだと思います。「繋がり」を見失っている方、そもそも自分にとっての「繋がり」って?そんなふうに感じられている方がいらっしゃったら私たちの心療所にいらっしゃってみてください。何かお手伝いできることがあるかもしれません。そして、そもそも、あなたのなかで「繋がり」に関心が向いてきていること自体、あなたの心の状態がなにか変化を兆してきているのかもしれません。

 

臨床心理士 佐野翼